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浄土宗
法然上人ゆかりの名刹
法然寺
法然寺縁起
文治3年(1187年)法然上人御齢五十五歳の春、当時、極楽浄土とされた熊野三山詣での折に、以前から親交のあった源氏方の山本左兵衛尉義恒判官に招かれて、錫を駐められた。この勝縁をたいへん喜ばれた法然上人は、直筆の名号を授け、念仏道場として、月光山勢至院法然寺と名付け、開山された。
招いた義恒(よしつね)は、近江源氏山本の城主であり、行動を共にしていた木曽義仲が京都へ乱入した際、源頼朝から追討命令が下された。以前から法然上人を帰依していた義恒は、自らの苦悩を告白し、上人から「あなたは今すぐ武器を捨て、阿弥陀様の本願を信じ、源平の争乱で命を落とした人々の菩提を弔いなさい。」と教えを授けられた。そして京から紀州野上の庄に身をかくしていたのです。
その後、建永2年(1207年)法然上人が四国流罪からの帰路の際もこの地に寄られ、ご滞在され、人々を教化された。勅免により、京へもどられる際、法然上人は、自らの形見として、御自作の尊像と直筆の「名体不離仏名号画像」を残され、今も現存している(下段の写真)。
寛文10年(1670年)知恩院第三十八世玄誉万無上人より、法然上人遺跡寺院として住職となられ再興された。その後も知恩院より、重誉西全上人、大誉霊覇上人が当山の住職をされる。以後、江戸時代紀州徳川家の崇敬あつく、寺格一万石とせられ、末寺28ヶ寺を有する本寺であった。
法然寺紹介動画
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